池田先生の平和旅① 〜戸田先生とメキシコ〜

 
夕日に照らされて街全体がオレンジ色に輝いていた。
車は、メキシコシティーの中心部に近いハンブルゴ通りを走っていた。
池田先生は車を止められ、通りに降りられると、奥様と共に歩き出された。
1981年3月2日の事である。
 
3度目のメキシコ訪問であった。
空港で行われた記者会見では
「悠久のガンジスの川の流れも一滴から始まっている。
 仏法者として、また平和主義者として、その流れが最初はいかに小さいものであっても、
 平和をもたらすため、できうる力をもって世界を奔走したい」
と意気込みを強く語られていた。
その言葉通り、平和の連帯を広げる激闘は連日連夜、続けられていた。
 この日も、ロペス大統領を官邸に表敬した後、メキシコ国立自治大学を訪れて総長と会見。
キャンパスの緑陰では学生たちと懇談の機会を持った。
宿舎に戻ると、メキシコ駐在のブルガリア大使の訪問を受けた。
夜には、メキシコの同志を激励しなければならない。
その合間にできた、わずかなやすらぎのひとときだった。
 
池田先生と奥様は、ハンブルゴ通りから、アンベレス通りという静かな脇道を抜けて、
広々としたレフォルマ通りに出られた。
パリのシャンゼリゼ通りを模して造られたというメーンストリートである。
左手に金色の天使像を頂いた独立記念塔が見えた。
先生は、腕を組みながら感に堪えないというご様子で「ここだったね」と言われた。
奥様も間髪を入れず「ここでしたわね」と応じられた。
それから、お二人で何度も「ここだったね」「ここでしたわね」と繰り返された。
同行していた私たちは、訳もわからず顔を見合わせ、「ここって一体、何のことでしょうね」
とささやき合った。
10分ほどいただろうか。
「じゃあ、行こう!」と先生は車に戻られた。
その晩、先生は私たちに聞かれた。「なぜあそこで止まったか、わからなかっただろう?」
だれも答えられなかった。
 
「実は、戸田先生が亡くなられる前に、メキシコの話をしてくださった。
 先生は一度も海外に行ったことがないのに、どうしてメキシコのことを
 詳しくご存知なのだろうと不思議に思った。
 戸田先生が語ってくれた場所が、実は、あそこだったんだよ」
 
池田先生の胸中には、いつも戸田先生が生きている。
胸が熱くなった。
戸田先生が亡くなられる前、
池田先生にメキシコに行った夢について語られたという話を思い起こした。
病床で戸田先生は、こう言われたという。
 
「大作、昨日はメキシコに行った夢を見たよ。
 待っていた、みんな待っていたよ。
 日蓮大聖人の仏法を求めてな。
 行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に・・・・・」
 
「大作、世界が相手だ。
 君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ・・・・・」
 
「大作、生きろ。
 うんと生きるんだぞ。そして世界へ征くんだ」

地球民族主義という大理念を唱えながら、一度も海外に出ることのなかった戸田先生。
その師匠の遺命を胸に抱いて54ヶ国を駆け、平和の種を全世界に蒔いた弟子。
師匠はどんな思いでメキシコの情景を弟子に語って聞かせたのだろう。
その話を聞いた弟子は、どんな思いで、このメキシコの街に降り立ったのだろう。
夕日を浴びて燦爛と輝く独立記念塔の前で楽しく語らう師弟の姿が目に浮かび、
感涙が込み上げてきた。
 
先生が歩かれたアンベレス通りは今、人々でにぎわう瀟洒な街並みに変わっているという。
 
〜文・吉田貴美郎〜