池田先生の平和旅?? 〜仏法西還とインド〜

 
乾季とはいえ、大河ガンジスは、滔々と流れていた。
夕もやにかすんで、岸の向こう側も見えなかった。
池田先生は河辺へ歩いて下りていかれた。
 
1979年2月11日、インドの古都パトナ。
先生にとって18年ぶりの訪問であった。
この日は、ガンジーの高弟ナラヤン氏と午後4時前から5時ごろまで語り合っていた。
先生が「人間革命を通しての総体革命を実現する」という構想を示されると、
76歳の哲人政治家は、即座に「私はまったく同意します!」と答えられた。
その断固たる口調が印象に残った。
 
太陽が沈むとともに満月が昇ってきた。
日天氏に代わって月天氏が「月氏の国まで、よくぞいらっしゃいました!」
と歓迎に現われたかのようだった。
池田先生が
「きょうは戸田先生の誕生日だね。
 お写真を、宿舎の部屋に飾ってお祝いしたいね」
といわれた。
 
宿舎に戻ると、戸田先生のお写真をサイドテーブルに飾って、ささやかな宴が開かれた。
池田先生は、ことのほか、うれしそうだった。
しばらくすると、先生は奥様とともにベランダに出られた。
満月は中天で金色の光を放っていた。
先生と奥様は
「こんな美しい満月は見たことがない。
 広宣流布の願業が、月天氏、日天氏の加護を受けて、すべて叶ったかのようだ」

と喜ばれ、振り返って戸田先生のお写真を見つめられた。
美しい師弟の心の語らいを垣間見る思いがした。
 
61年、インドを初訪問された時には、まだメンバーは一人もいなかった。
それがこの79年には40人ほどが集まった。
皆、まだ信心は浅かった。
先生は掛け替えのない宝の同志たちに
ガンジス川の悠久の流れも一滴の水から始まる。
 それと同じく、今はメンバーは少なくとも、自身がその一滴であるとの自覚で
 洋々たる未来を信じて前進していただきたい」

と確信を打ち込まれた。
 
顧みれば、第3代会長を勇退される2ヵ月半前のことであった。
この時、日本では、愚かな僣聖どもの悪口罵詈が暴風雨のように渦巻いていた。
しかし、仏法西還は、恩師・戸田先生の悲願であった。
「いざ往かん、月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」
という恩師の壮大な夢を実現しようと、池田先生は一人、戦われていたのである。
 
それから後も、先生は時を待ち、時をつくっていかれた。
40人のメンバーが核となり、13年後の92年2月の訪印の際、
インド創価学会は1000人に広がっていた。
さらに、その時、出会いを結んだメンバーによって、97年10月の訪問の時には
4000人に広がっていた。
そして先生の初訪問45周年を迎えた今、インド広布は、想像もできなかった段階に突入した。
太陽の仏法に対する共感はあらたな共感を呼び、
その連鎖によって地涌の陣列は2万5000人にまで拡大した。
戸田先生が夢見たように、月氏の国に、仏法西還の時代が本格的に到来したのである。
 
 
〜文・アカーシ・オオウチ〜