池田先生・牧口先生 仏と魔の見極め


ある時、一人の青年が牧口先生に質問した。ちょうど60年前の話である。
まだ信心していなかった青年は、こう尋ねたという。
高い次元における善悪を、どうすれば凡人が判断できるのでしょうか?
「善」とは何か。「悪」とは何か。
善悪をどう判断していけばよいのか――まことに大きな課題である。
今の時代も多くの人が迷っている。
青年らしい鋭い問いかけを、牧口先生は真正面から受け止められる。
先生の偉大な人格を彷彿(ほうふつ)とさせるエピソードである。

牧口先生は、厳しい表情で答えられた。
「それは観念ではわからない。実行だ!
 今の社会思想、道徳論、倫理観などでは解明できない。
 大物の宗教家でさえ曖昧である。
 彼らは葬式屋だから判別の道さえわかっていないのだ」

低次元の宗教屋には、何が善であり悪であるかさえわからない――と。
自分が自分でわからない。混乱している。

それでは、どうすればよいのか。牧口先生は、きっぱりと結論された。
「世界最高の宗教を命がけで修行する。
 その努力と勇気があれば、わかるようになる。
 若者は実行と決意だ。やれば必ずできる」

命がけで実践すればわかる。しなければわからない。
――これが先生の主張である。

牧口先生ご自身が、広宣流布のために、
文字通り“命がけ”で仏法を実践された。
だから、善悪の判断が明快であった。皆を正しく指導できたのである。
その後、大聖人の仏法をいちばん守るべき宗門が堕落し、
神札を受けるという謗法にまみれた時も、その極悪の姿を正しく見抜かれた。
そして断固として戦われた。
私も広布のために命をかけて戦っている。
だから善も悪も、はっきりとわかる。

善と悪、仏と魔は常に一緒に現れる。
気をつけないと、見分けがつかなくなる。魔ほど恐ろしいものはない。
その魔を見きわめるのが仏法である。魔と戦い、勝つための仏法である。
見きわめる力、勝つ力は、命がけの信心からしか生まれない。
魔を見きわめなければ、本当の戦いはできない。
真剣なる闘争を貫いた人――結局、その人が一番の幸福者である。
栄光の人である。
勝利者である。
最高の善の世界を、晴れ晴れと生き抜ける人である。

牧口先生は、青年をこう励まされた。
「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。
 老人にはなったが、私も実践しています」

時に、牧口先生は63歳。
偉大なる“求道の言葉”である。私の胸に深く突き刺さっている。
みすみずしい求道心――そこに仏法の源流があり、信心の原点がある。
また、創価学会の大道がある。
「求道の人」は、いつも若々しい。喜びをもっている。すがすがしい。
謙虚に自分を見つめ、謙虚に自分をつくりあげている。
だから、偉大な自分ができあがる。

いつまでも生き生きと、どこまでも求道の人生を進んでいく――
その人が本物の仏法者であり、創価学会の同志である。

         【第77回本部幹部会 1994-04-23 東京牧口記念会館】